into the blue

将来の夢はキリン

“同じくらい異なる私たち”

新川帆立さんの『倒産続きの彼女』を読んだ。これはシリーズものだが、一作目の『元彼の遺言状』はドラマを観たのでストーリーが分かっているため良いだろうということにして、二作目のこの作品を読んだ。というか、図書館で一作目は貸出中で、二作目のみがあったのだ。そんな簡単な理由である。

 

この作品の第三章のタイトルである“同じくらい異なる私たち”という概念がとても好きだ、と感じた。他人同士のことを軽々しく「似ている」「似ていない」と言うけれど、私たちは誰とも似ているし誰とも似ていない。と、私もたまに思うのだ。

その延長で、私は誰のことも好きだし誰のことも嫌いだな、と考えることがある。もっと平たく言うと「どんなに素敵な人でも、自分にとっての好きな部分と苦手な部分がある」ということである。だから、誰とでも仲良くするし誰とも仲良くしない、と割り切っているところがある。本当に可愛くないなと自分でも思う。可哀想でもあるが、私はそういう人間なのだ。

よく、「あの人のこと本当に理解できない」とか「あの人とは絶対に分かり合えない」という言葉を耳にするが、本当にそうだろうか?その場で分かりやすく愚痴っているだけで、そう言う人たちも、「相手の全部を理解できない」と言っているわけではないのだろうが。そういうシーンで私は、どこか似ているところはあるし、どこか全く異なるところもあるのだろうな、と変に冷めた目をしてしまう。

実際、「あの人はすぐキレるから嫌なのよ」と愚痴る正にその本人がすぐにキレている場面を私はよく目にするんだけどね、と隣で思っている。別に言わないけれど。すぐキレる部分が似ているからこそ嫌になるし、仕事の仕方が異なるからこそ気に食わない。似ているし、似ていない。そういうことなのだろうな〜。

 

こういうことを書くと嫌われるのだろうね〜と思う。大丈夫、私はみんなが好きだから(と、書くことでさらに気持ち悪さが増す)。