into the blue

将来の夢はキリン

覚えていないというか忘れさせてもらっているというか

家族と話をするとき、通じることと通じないことがある。特に私が幼少期の頃の話は通じないことが多い。私がとにかく覚えていない。「ここ家族でよく行ってたじゃん!」と力説されても、覚えていないものはどうしようもない。親は私を産んだ時点で大人だったので私にも通じる前提で話してくるが、親と違って当時の私は幼き子どもである。そして姉とは年の差があるので、姉の記憶と私の記憶もまた違ったものなのだ。

幼少期から引っ越しも多く、“姉の幼少期の思い出の地”と、“私の幼少期の思い出の地”も異なる。たとえ年が離れていても、お互いに「5歳のころはこの幼稚園に通っていた」などという共有ができればよいが、それが基本的にできない。だから姉と私の人生は似ているが完全に違う。似ているからこそ違うとも言える。分かり合えるという前提でいつも家族に語りかけられるので、私はいつもいやになる。「私は覚えていないので分からない」とよく返している。

 

今日もまたそんな話になったのだが、「覚えていないというより忘れさせてもらっているんだな」と感じた。こういう風に感じるのは初めてのことだった。

もちろん昔のことは覚えていてもいいものだが、別に忘れていてもよいことである。楽しいことばかりでもなかった。私にとってつらい出来事も関連しているので、忘れているのは実はかなり良いことであり、昔にとらわれずに今を生きればよいという神さまの励まし的なものなのではないか、と急に思ったのだ。だから別に忘れているなら忘れているなりに堂々としていようと思う。

その分私はこれから生きるために必要なことを記憶していきたいし、していけていると思っている。

 

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素敵だなと感じる校正の会社をみつけた。来月の試験が終わったら、その会社の採用テストを受けてみようと思う。こういうやるせない出来事に直面する度、私は今を生きるぞ!!!!!!!オラ!!!!!!と思う。いつものこと。